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覚法寺沿革 The-Kakuhouji's-History
早川山覚法寺(そうせんざん・かくほうじ)の由来と、その歴史について。
早川山という山号の由来…、覚法寺420年の略縁起。
覚法寺・寺紋【桐車】
(元は早川家《そうがわけ》家紋)
住職 大谷 昭広
覚法寺420年のヒストリー 【the origin and history of a temple】
覚法寺創設期
覚法寺の山号は、早川山(そうせんざん)と号します。
なぜ早川山と申すかといいますと、早川(そうがわ)といわれる地から、このお寺がスタートしたからです。
文禄元年(1592年)、覚法寺初代・釈了意によって、早川(そうがわ)の地に坊舎を建立し、覚法寺が開基されます。現在の熊本県甲佐町早川(そうがわ)の場所になります。
覚法寺初代である了意という名は、出家後の法名です。天正12年(1584年)までは、阿蘇氏24城のひとつ、早川城(そうがわじょう)城主でありました。しかし、時は戦国の世であります。城主は城を開城して、のちに出家得度をしました。(天正8年(1580年)の隈庄城の戦で、その時の城主、早川吉秀は戦死したとのことなので、出家した了意とは、早川吉秀の親族子孫と考えられる。)
現在の熊本県甲佐町早川の写真。
ひとつ飛び出ている、小高い小山が「早川城址」と言われている場所で、地元では「城山」と呼ばれているようです。
覚法寺第一次移動期
寛永18年(1641年)覚法寺第三代慶味の時、肥後細川藩となり城下町(現在の熊本市中心部河原町あたり)に寺基を移しました。
その当時になると時代は、戦のない平穏な江戸時代に入り、熊本も肥後細川藩となり熊本城を中心とした一帯は、城下町として栄えた場所になります。
この場所一帯は、浄土真宗のお寺が、かなりたくさん集中して建立されています。
写真は、現在の熊本市河原町あたりです。
覚法寺第二次移動期
幕末から明治時代に突入していく激動の時代。平穏な時代は終わり、幕末から再び戦の時代へ。
明治10年(1877年)覚法寺第11代一徳の時、西南の役によって本堂を焼失しました。
再び寺基を移動することになり、次の移動地は、『出水町大字今』の地(現在の熊本市出水一丁目)です。別名「今村」と言われていました場所ですが、そちらに移動しました。
写真上は、現在の熊本市出水一丁目(旧今村)の交差点です。
写真下は、当時覚法寺が建立されていた場所あたりで、現在は民間の駐車場になっているようです。
覚法寺第三次移動期
去る世界大戦により…再びお寺は損壊しました。当時、熊本市一帯は、『熊本大空襲』にあいました。
そして昭和35年(1960年)、現在の熊本市水前寺公園に移転しました。
そして現在の覚法寺
電車通りに面した非常にわかりやすい場所です。『国府』の電停からも直ぐです。
この間歴代住職や、門信徒の方々には大変なご苦労があったことと思われます。現在の場所にも有縁の方々の並々ならぬご尽力によるものです。